CRIME OF LOVE 8
エレベーターが一階に止まり、望美は何も考えず足を前に動かした。
広々としたロビーを過ぎ玄関を出て、アプローチから暗い道の向こうを見渡す。吐く息が白く変わる気温の低さも気にならなかった。
もうすぐタクシーが来るはずだった。それに乗って、家に帰って……それから明日が来て。
でも知盛にはもう、会えないんだろうか。
ずっと彼がそばにいるのがあたりまえだったから、彼がいないことがどういうことなのか、よくわからない。彼がいなくても、たぶん変わらず時間は流れていくのだろうけど。
うっすらとにじんできた涙を手でぬぐった。いっとき麻痺していた涙腺が、ようやく回復してきたようだ。先ほどのやりとりがぽつぽつと頭の中に反芻されてくる。
私が一緒に行ったら、足手まといだと彼は言っていた。
確かにそうかもしれない。あの世界にいた時から数年が経っている。龍神の不思議な力が働いたとしても、以前みたいに剣をふるえるかどうかはわからない。
それとも知盛が行った先には、また別の「私」がいる? 源氏の神子として戦う「私」が……。
もしそうだとしたら、知盛はどうするんだろう。私に触れたみたいに「私」に触れて……そして「私」もやっぱり、知盛を好きになるのかな。
いやだ、そんなのと反射的に思い、望美は自分の体をきつく抱いた。
だって、彼は私だけのもの。これまでも、これからも。
私は彼を愛してる。彼しかいらない。知盛がどんなにひどい人だとしても……。
――そう、知盛がどれほど気まぐれでわがままで自分勝手な男か、望美はよくわかっていたはずだった。しかもたいそうな面倒くさがり屋のくせに、その気になれば何でもこなせて、あせりとは無縁のクールな表情を崩さない――それなのに時々、どうしようもなく感情表現に不器用で、素直じゃない知盛。
そしてそんな彼が、どれほど深く彼女を愛し、求めてきたかも……。
知盛が望美のものであるように、望美もまた知盛のものだ。互いを想う気持ちは少しも褪せてはいない。にもかかわらず知盛が彼女を拒む理由は――望美が何にも増して平穏な世界に焦がれていたことを、誰よりも彼はよく知っているから。
だから彼女を戦乱の中に連れて行きたくないと、平和な場所で穏やかに暮らしていってほしいと願っている。来ては駄目だと言っている。
ひとりで行く道を採ろうとも、それは彼の苦衷の選択の結果に違いない。彼にできる精一杯の真情を彼女に向けてくれていることに、決して変わりはないはずだ。
だが本当は、かつてのように、来いよ――と、その手を望美に伸ばしたかったのだと信じたい。
ならば――彼が自分の生きる場所を求めて戦いに戻るというなら、彼女もまた、ついて行く。それだけだ。さっきのように駄目と言われたって、足手まといだと言われたって、もう聞き入れるものか。
華やかに息づき始めた感情が凍りかけた胸を融かし出す。昔いだいていたような想いの強さがふつふつと心の表面ににじみ出てくるのを感じ、それはひどく懐かしい熱さで望美の心を焼いた。
(だって知盛、平和がほしかったのも、みんなあなたを生かすためだったんだよ?
あなたがいないのなら、いくら戦さのない世界だって――意味がない)
本当は戦いは恐ろしい。無残な死と悲しみ、さまよえる怨念。でももし、望美の知らない時空のどこかで知盛が命果てるようなことになったら? そんなことは我慢できない。ひとり勝手に逝かせなどしない。知盛は彼女の心のすべてをさらってしまった男なのだから。
彼と共にいること、それだけが望美の願いだ。そのためなら歴史だっていくらでも変えてみせる。恐怖心だってねじふせてしまえる。ほしいもののためなら、何だってできる。
なぜなら望美もまた――獣だからだ。
知盛を得るために、何度も時空跳躍を繰り返したあの頃。もしかしたらそれは罪と呼ばれる行為だったのかもしれないが、それでも望美はためらいはしなかった。ひたすら彼を求めていた飢えにも似たあの気持ちは、知盛を失おうとしている今、鮮やかなほどに激しく彼女の裡によみがえってくる。
知盛、あなたがほしいよ。あなたの血も肉も骨も魂も――運命も、全部。
やっぱりあなたをあきらめたくない。たとえあなたがいやと言っても、それでも私はついていきたい。だって、私にはどうしてもあなたが必要なんだもの。
何て欲張りでわがままなんだろう? でも、これが私。
そういえばあなたが最初に私を受け入れてくれたのも、こんな貪欲な私を認めてくれたから、だったよね?
―――戻らなくちゃ。戻って彼に、この自分も彼に負けないくらいとんでもなく勝手な人間だってことを、もう一度教えてあげなきゃ。
だいたい知盛はいつでも何でも自分で決めてしまって、あとから私に言ってくる。まったく、しかたない人。
けれど―――愛しい。
ふわりと心が軽くなった。
泣いている暇はない。今を逃したら二度と会えない。
目の前にタクシーが止まった。開いたドアから半身だけ車の中に入れ、望美はバッグから札を出していそいで運転手に渡した。
「ごめんなさい、あの―――」
走り去るタクシーを背に、望美はマンションの玄関に駆け戻った。オートロックの暗証番号を思い出そうとあわてつつ、並行してバッグの中を探る。リモコンキーがすぐに手に触れ、取り出してロックを解除した。先ほどはこれを知盛に返すところまでとても気が回らなかったことにほっとする。
専用エレベーターは1階に留まっていた。このエレベーターは、上がっていく時は玄関と同じキーを使ってセキュリティを解除するようになっている。急くようにキーを受信機にかざし、最上階のボタンをあせりながら何度も押した。エレベーターの動きをこんなにのろく感じたことはなかった。
これなら階段を駆け上がった方が早かったんじゃ……。もちろん、そんなはずはないのだけれど。
最上階に着いたエレベーターの扉が開ききるのも待たず、望美は飛び出した。
ドアが開け放たれたままのベッドルームに知盛はいない。さえぎる家具のない大きなリビングを見渡しても姿はない。では、どこに―――。
リビングの向こう、大きく開け放たれたスライドドア。その先は広々としたルーフトップのベランダだ。
鈴の鳴るような音が聞こえた。聞き間違えるわけはない、逆鱗が時空に共鳴している。
望美は駆け出した。